オムニバス

うまくいかなかったことがある。

工作教室のときに小5の双子の姉妹を担当したことがある。とてもやんちゃな子達だった。ずっと二人で喧嘩をしているし、こちらの話もなかなか聞いてくれない。

卓には6人の子供たちがいた。でも僕が担当する卓にはセロテープが2つしかなかった。だから卓に配置された二人のスタッフがセロテープを子供達に切って渡すという方法を採用することにした。

双子姉妹は僕にセロテープをちょうだい!!!と強く主張していた。最初は僕もちょっと待ってね。と優しめの口調で言っていたのだが、双子姉妹のうちの一人がセロテープの歯の部分に手を出してきて危ないと思ったので思わず「待て!」と強めの口調で反応してしまった。

「私は犬じゃない。」

これは僕の反応に対する彼女のレスポンスだ。確かに犬じゃないと感心する一方で、どうしてこんなに強い返答をしてしまったのだろうと、そしてどう返答するべきだったのだろうとその後悩み続けた。

 

うまくいったことがある。

SSSの会場は仕切りで区切られていた。班は6班あったので、3班ごとに別れるように仕切りで区切っていた。その仕切りは薄い板にキャスターが付いた構造になっていて、少し押しただけで倒れてしまうような代物だった。その仕切りを何枚か横に並べることで向こう側へ行けないようにしていた。

作業に疲れてきた子供達は遊び始める。子供達は様々なところに遊びを見つける。もちろんこの仕切りでも遊び始めた。仕切りと仕切りの間を通り抜け、時には仕切りを押しながら遊んでいた。

他のスタッフの人たちはこれを注意した。危ないからやめなさい。

でも子供達からやめる気配を感じることはできない。

僕はこのとき子供達に、ちゃんと説明をすることにした。

「この仕切りで遊ぶと何が危ないのか一緒に考えてみようか。例えばこの仕切りを押したときに、この仕切りが倒れてしまうかもしれないよね?もしもそのとき向こう側に人がいたらどうなるだろう?怪我をしてしまうかもしれないし、ひょっとしたら死んでしまうかもしれない。そうしたら取り返しのつかないことになっちゃうでしょ?だからここで遊ぶのはやめよう。」

そう伝えると、子供たちは僕の言ったことを理解してくれてそれ以降仕切りを使って遊ぶことはなくなった。

 

なぜやってはいけないのか、それを伝えるところから始めよう。やってはいけない理由を伝えてもわかってもらえないかもしれない。だけど伝えてみなきゃ結果はわからない。伝えることでわかってもらえるなら万々歳だ。わかってもらえないときの対処についてはそのとき考えよう。

大人子供関係なくさ。自分がわかっていることはちゃんと説明をしていこうよ。だってわかってるのに説明をしないなんてそんなの意地悪じゃん。

 

 

相手の考えていることが全てわかる世界だったらどれほど素晴らしいだろうと思うことがあった。認識のずれで人と争うことがなくなる。

少しイメージしてみよう。

ここは相手の考えていることが全てわかる世界だ。人と向かい合うと今その人が何を考えているのかが全てわかる。この世界では大抵のことが予測できる。

この世界では人とコミュニケーションをとる必要はほとんどない。なぜなら顔を合わせれば相手の脳内が透けて見えるから。こないだあったことを話そうにも、顔を合わせた瞬間に話が全てばれてしまう。人が好きなことについてキラキラと目を輝かせて話す姿を見ることは、この世界ではできない。お互いの悩みについて、わからないなりに対話をしながら答えを導こうとすることもできない。

そんな世界に憧れを持つか?

相手の考えていることがわからないという制約がある世界だからこそ、人と様々なことを共有したいんだと思う。初めからは分かり合えていない世界だからこそ、分かり合えたときの喜びはすんばらしいものになるんだ。

 

 

新しいブログを書くたびに、結局昔に書いたことを言い換えながら文章を書いているだけなのではないかと自問自答している。

ひょっとしたらそうかもしれない。おんなじようなことを言い続けているだけなのかもしれない。

でも、だとしたら、だ。

だとしたらその事柄は自分にとってすごく大切なことなのではないだろうか。何度でも主張したくなるような、いわば自分の核となるような考え。

主張を繰り返すことでその考えが自分の核であるという自信を持てるようになったのであれば、僕が同じような内容のブログを書いていたことにも意味があったのだと思う。